昭和46年06月20日 朝の御理解



 御理解 第16節
 「無常の風は時を嫌わぬというが、金光大神の道は、無常の風が時を嫌うぞ。」

 信心をさせて頂いておれば、それこそ無常の風が吹いて来よっても、それをまともに受けずにそれる、それさせて頂ける程しの、おかげが受けられると言う意味でしょうね、金光大神の道はと仰しゃつとられます。同時に金光大神の御信念の程が、この御理解に表れているという感じが致します。金光大神のお取次下さる毅然とした態度というか、確固たる信念を以て宣言しておられると言うこと。言うにも頂ける、信心をさせて頂いておれば、お道の信心と言うものは、信心させて頂いておれば。
 例えば無い寿命という様な時でもおかげが頂けれる、又は知らぬ内にでも無常の風を、反対の方に吹かせて下さると言った様な、おかげを頂くと言う事実と言うかね、体験を頂いとる人は沢山あります。金光大神の信心しとれば、金光大神の道と言うのは、そういう道だという風にも頂きますと同時に、全然信心のない人、初めて例えばもう医者に見放されましたと言うてお願いに来る氏子、これは本人に信心が無いのですから。
 いわゆる金光大神の御神徳と言うかね、信じて疑われない御信念に依って、助からん寿命運命であっても、助かる事が出来るぞという風にも此処では頂けます。ですから金光大神の御信念の程を、と同時に金光大神の道を分からせて貰い、その道に従うて行く信心者の、いわゆる、お道の信奉者の者は、そういうおかげも頂く事が出来るという、その両面をここの御理解から感じる事が出来ます。ですからこれは寿命と言う事だけではないですね、ま人間それぞれの運命はもう定まっておると言われております。
 けどもその定まっておる事が定まった儘では、信心の意味はないと思うですね。値打ちは無い、信心とはそういう定まっておろうけれども、もう早死にする定めであるかも知れないけれども、一生貧乏しなければならない運命にあるかも知れないけれども、それではね信心の値打ちがない。成程自分には人相からして貧相で、もうお金に縁のないと言った様な風に、例えば易なら易の上に表れている人でも、信心をさして頂けば段々福相になってくる、にこやかになって来る、しかも金持ちになれない筈の人が金持ちになれると言うおかげが頂ける。
 早死にする筈の運命の人が信心に依って、御神訓の中にある「生きたくば神徳を積んで長生きをせよ」と仰しゃる。此処辺りになって参りますと、もう大変な事だとこう思うのですけどね、神徳を積んで百万長者になりたいと思うなら、神徳を積んで百万長者になれよと言う事もいえる訳なんです。そこで私は此処で思うのはね、例えば此処から二つの事を申しますですね、金光大神の御信念の程がここに伺われる。
 と同時に信心をしておれば、そういう道に信心が続けられて行きよれば、金光大神の道は、そこんところを助けて頂く事が出来るという、二つの事をここの中から感じる。金光大神の御神徳に依って、ない命でも助けて貰ったと致しましょうか、処がその助けて貰ったけれど、助けて貰ったおかげで、かえって不幸になると言う人が無いではないですからね。いや助けて貰ったけれども、信心がそのまま断絶してしまつて、それこそアラッという間に亡くなると言う事がありますからね。
 そういう例が合楽では随分ありますよね。中島の上滝さんなんかもそうです。あれはもう絶対にない寿命でしょう、お医者さんはもう時間の問題だと言われる粟粒結核で、もうお腹のここから化膿した膿がどんどん出だした、それこそ家の者でも座敷に締め切って、お茶飲み茶碗一つでも熱湯を潜らせなければ、それを使わぬという位怖い病気ですからね。大体、結核としての粟粒結核ですから、それが此処の信心に依って助かったでしょう、しかも復職出来なかった筈の西鉄に復職が出来たでしょう。
 ところが、こんなのは無常の風が時を嫌わして下さった訳である。未だここに縁を頂かない前に、大変あらたかなお不動様を拝みなさる、いわゆる祈祷師のところへお参りをされた、ところがその祈祷師の心眼というか、霊眼に映ったのはね、上滝さんが死出の装束をつけて、そしてわらじを履いて、そして片一方のわらじも履いて、紐を結ぶばっかりになっているから、もうこの人は駄目ですと言われた。そのお不動様の祈祷師さんがそう言いなさった。
 だから諦めておるところに、ここに御信心を頂いておる正義さんの姉さんがお導きをして、私は未だあちらこちらに病人さんがおると言えば、病人さんところへ話に、難儀な人がおれば難儀な人のところへお話に行った。未だ椛目が開ける前の話、もうその前後の頃でした。私はもう毎日あちらにお話に参りました。もう本当に助かり相にもないところを、私が頂いたのも、もう火葬場行きだと頂いたのですから、もう半分は腐って食べられはしない様な葡萄を一ぱい頂いてね。
 これはもう塵箱行きだと神様から頂いて、けども此処でひとつ工夫のあることは、これを例えば瓶の中に水を汲んで、そしてこれを醗酵させて、葡萄も腐って頂けんのだけれど、これを葡萄酒にするならばと、いう様な御理解を頂いてね、それから一生懸命上滝さん達も弾まれましたから、一生懸命弾んだ信心が出来ました。私ももう一生懸命でしたが、おかげで助かった。それこそ粟粒結核じゃなかったろうと、治った後で言う位におかげ頂いた。肋骨を何本ば取れば今の内に助かる。
 余り良くなったのでそげなこと医者が言うて来た、けどももう迷わんと言うので、迷わずに一心に、当時の椛目にもお参りさせて頂いて居りました。それからおかげ頂いて助かったのですね。これなんかは無常の風が時を嫌った訳です。けれどもおかげを、おかげでない様な思い方になって来た。いわゆる、あれは粟粒結核じゃなかったとじゃろう、いう様な考え方になって来て、信心の方もおろそかになって来て。
 家内が神様にお参りをしょうと言うたとき、まあ良いじゃないかと手を引っ張った時、息が切れた時が一緒じゃつた、これは今のみちえさんが言う話ですから本当の話です。本人自身が言うとるですから。私が椛目に朝参りをすると言うてから起き上がった時に、いいじゃないかと手を引っ張って、こうして止めたと息の切れたとが一緒じゃった、だから初めの間は、これは冗談しござるとか思うとったと、だからこの神様はない命でも助けて下さる、もう寿命でも無常の風が吹き来とる。
 ここまで来とるとを向こうさえ吹きやって下さると言う様なですね。もういよいよ難しいとき親戚皆集まってから、死んだと思うてからわんわん泣きよった、そしたら上滝さんが目をパチッと開けたけん、皆が「えづかった」と言う話がある。その時の話を本人がしておりましたがね、それこそずーっと高い高い、それこそ高天原にとでも申しましょうか、と言う様なところに雲に乗って行きよった、大きな御神殿が見えて来た、あああそこに入らにゃんとばいなあと思いよる。
 死んで行きよるのですね上滝さん、そしたら向こうから一陣の風が吹いて来てですね、ぷーっと吹きやられて落ちたところが自分は床の上におった。枕元に居った者は皆わんわん言って泣きよった。成程無常の風が吹いて来よったけれども、向こうへ吹きやって下さった様なおかげ、こういう例を言うなら合楽でも限りがないですよね。原さんところの、今お参りして来ている昌一郎さん達の場合だってそうです。親戚の者がもう難しいと言うので、お葬式の準備して集まる、というのが助かったのですから。それこそ医者の薬一服飲まず、注射一本もう絶対神様はさせなさらじゃった。
 ところがです、そこのところがです、そういう無い命を助けて下さったと言うことでも、助けて頂いただけではいけないと言う事と、その助けて頂いた処からの信心がなされる原さんなんかは、まあ大変な処でしたけれども、夫婦のものが信心の道を決して離しませんと、それが条件でしたね。以来二十年ですか御夫婦、親子の者が、それこそお母さんなんかは朝晩二回宛て善導寺から参ってきなさる。しかも何十年と続いとる。
 そこんところにです、「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」と、いう長生きのおかげが約束される。その後に於いて信心が神徳を積む、信心修行がなされなければならないと思う。金光大神が、よしもう死ぬるとでも助けてやるぞ、と仰しゃられる表現なのです。信心がなくても、どうぞとお願いしてくりゃ無い命でもそこを助かる。印しが見えた、けれどもやれやれ助かったと信心を怠ったら、それでおかげを落としたと言う例はいくらもありますよね、合楽は。
 皆さんも知っとる方がありましょう。吉木の赤司さんという方、もう箸にも棒にもかからん位の病人でした。大変な事でしたねあの時分は、朝お参りさせて頂いて、リヤカーで引っ張って来て貰うてから、お参りをして来てから、午前中話を頂いたけれども有り難い、もう有り難うして堪えん、それから又わんわん泣きながら御理解頂いて、帰る時にはね歩いて帰ったとです。もうそれこそ青瓢箪のごとしとるとが、顔に血の気が出たです、一日お話を頂いとる内に。
 それからその常持に親戚がある、そこに泊めて貰って、そこが近いですから、そこから繁々と、お花を売ってる若いお方でしたが、もうそれこそリヤカー引っ張ってお花を売りに行かれる程しにおかげを受けられた。一年ばっかりしっかり信心が出来よったけれども、後はもう忘れん印しにと言うて、月に一ぺん、それが半年に一ぺん、もう一年たったっちゃ参らんと言うごとなった。ああもう途中でお会いでもすると、御恩は忘れておりません、と言うてから言いよんなさった。
 それから二、三年して亡くなられたと、言う事を聞いたのはそれから二、三年後でしたからね。ない命を助けて頂いてそういう例は限りないことです。この二十年間の間これは命だけの事ではありません。例えばもう本当に貧乏せなければならない筈の人が金持ちになった、金持ちになった処が今金を持っとる為に、信心がおろそかになって難儀をしている人があります。金には難儀せんばってん子供が難儀させる、もうそれこそ生身に鉋をかける様な思いをしよるです親が、それでもその人は気が付かん。
 ですからここんところね、無常の風は時を嫌わんと言うけれども、金光大神の道は時を嫌うぞと、いう様な信心をしとけばおかげが受けられると言うと同時に、金光大神のいわゆる、不動の御信念に依って助かる事は出来る。どうぞと言うて願って来れば。けれどもその後がです、続かなかったら又後は同じこと。ただ一年か二年か長生きしたと言うだけの事です。本当の寿命というそれから先がです、どういう信心になって行かなければならないかと言うとです。
ない命を助けて頂いたのでございますから、これから先は神様に喜んで頂けれる、社会のお役に立つ様なお役に立たせて頂く、寿命としておかげを頂かして頂かねばならん。だから神様は、いわゆる御用済みと言うかね、御用の終わるまでは御用に使うて下さる、その信心が出来なければならん。同時に御神訓の中にあります「生きたくば神徳を積んで長生きをせよ」これは永生、長生きのおかげが受けられる、神徳を積むと、この世だけじゃありません、この世に御神徳を受けさせて頂いて。
 その御神徳がこの世にも残り、あの世にも持っていけれると言う、これはもう永生生き通しのおかげ頂けれるのが御神徳、だからどうしても御神徳を頂くと言う事にね、焦点を置いて本気で信心の稽古をしなければ馬鹿らしいです。只ちょいと命を助けて貰うだけでも有り難いけれども、ちょいとじゃいかんでしょうが、お金のお繰合わせ頂いて、おかげで事業は繁昌しておる、けれども、さあその貧乏しとった時の方がよかったと、いう様に人間関係の嘆きとか苦しみとかに会ったらつまらんでしょうが。
 頂いたおかげがおかげにならん。本当のおかげになってね、花が咲いたら実が結ばなければ、私は神様の願いはそこにあると思う。無常の風が吹いて来よっても、その風を反対の方へでも、横にでも避らさせて下さる程の有り難いお道だ、金光様の御信心ちゃ。だからそういう時には自分では気が付かない様な時があり、自動車にぶっかってからない命の所を助けて頂いたと言うならね、まあ分かるけども全然ぶつかりも何にもせないで、神様を信心しとるからと言うて、風をそらせて下さったのなんか分からない。
 だから信心させて頂いたらどれ程、お礼を申し上げても、お礼を申し上げても足らんと言うのがそれです。目に見えぬおかげの方が多いと仰しゃる。金光大神が嘘仰しゃるとは思われん、金光大神の道におれば、金光大神の道は無常の風が時を嫌うと仰しゃる。金光大神の道を頂いて、信心させて頂いとれば、そういうおかげが頂ける道なのだ。同時に金光大神の御神徳にお縋りをして、まさかの時には金光大神助けてくれと言えば助けてやると仰せられる、助かりのおかげを頂く事が出来る。
 それだけではいけん、助けて頂いた後が大事、百万長者になる事を願う事も良かろう、百万長者になった時の事を昨日の御理解、百万長者になった為に贅沢を覚える、それこそ神様にはやっとかっと百円のお供えしか出来ぬ様なおかげしか頂かずに、さあ自分の時には千円の事であろうが、一万円の事であろうが、しかもそれが必要でもないことに、ボンボン使う様な事ではね、おかげにならん。それこそ甘木の初代の先生がね、一円の金を自分が使うでも、それこそ百円の金を使う様な思いで使うと仰せられる。
 こと神様の事であったら百円の金を使うでも、それこそ一円の金を使う様な思いで使う、と言った様なものがしっかり出来ていって、百万長者にならして頂かなければおかげを落とす、所が願えばおかげを頂かれますからねえ金光様の御信心は、だからそのおかげを頂いたら、その裏付けになる信心がしっかり出来て、それが楽しくなる自分の信心が進んで行く、ああこれが徳を受けていきよるのであろうかと、自分の徳を受けて行く状態が、自分の心の中に感じられる様な信心がなされて来るのが楽しうなって来る。
 先日月次祭の時にお話させて頂いた、玉水教会の初代のお言葉と言うのを、昨日私書いて見た「自分の都合の良い事は喜び、都合の悪い事を不足に言うのは、未だ本当の神様が分かって居ないと言う事、天地の親神様の働きの中には、母親の様な愛情と、父親の様な厳しい愛情と二つある。その母親の撫でたり擦ったりされる時は有り難いけれども、叩かれる時に不平不足を言う事では、成程神様が分かって居ないと言う意味なのです。本当の神様を分かって居ない、都合の悪い事も喜ぶ様になれば一切が自由になる。
 一切合切が喜べれば一切合切が自由になる。金光教は生きながら極楽と」いうとられる。これと同じ事をいつも私は申しとります。この世で極楽の心を開いておかずして、あの世に極楽があるものか、この世で極楽と言うのは、あれもおかげ、これもおかげと喜べれる心なのです。そういう信心させて頂く事に依って、お徳が受けられる。「生きたくば神徳を積んで長生きをせよ」と仰しゃる。生きて百万長者になりたくば、御神徳を積んで百万長者になれとも言える。
 それには今申します様に、本当の神様を分からにゃいけん。その本当の神様を頂いて行かなけりゃいけん。信心して起きてくる一切の事柄を寒いことでも、暑い事でも痛い事でも痒い事でも、それこそ良しも悪しも神様の御都合として受ける、有り難しとして受けて行くと言う様なおかげになって来れば、もう一切合切が自由になる程しのおかげになる。そういうおかげが金光教は生きながらにして受けられると言うのが、極楽というのがそれなのである。
 此処で極楽の境地を開かずして、あの世に極楽がある筈がない。この喜びのまま、あの世に行けば極楽往生間違いなし。そういう心の状態が出来て来るところに、お道でいうところの死生感、生きても死んでも天と地は吾が住家と思えと、仰せられる程しの死に直面させて頂いても、その死をね、死に際にもお礼が言えたり、お願いが出来たりする程しの境地が開けて来る。おかげになって来る。 お道の信心をさせて頂いとれば、気が付かぬ中にも無常の風が外れておる様な、おかげを頂いておる事もあろう。
 けれども気が付かん場合もあろう、気の付く場合もある。道の信心しとればそういうおかげが受けられると、此処で教えておられると同時に、また金光大神の一つの御信念の程、それこそ初めてどうぞお願いします、医者に見放されました、どうぞ助けて下さいと言うてくればです、それをおかげを下さる程しの御神徳、お力を金光大神が持って居られると言うことを、ここには宣言しとられる様にも思う。
 けれどもそこを助けて頂いたと言うたからと言うて、それからの信心がなされて行かないならば、いくつか例を申しました様に、それこそアッと言う間にしまえて終う。素晴らしい事であると同時に、まあ何と言うでしょうか、天地のそうした働きと言うものは凄まじい事なんです。ない命が助かるそこで私共は、生きたくば神徳を積んで長生きをせよと、仰せられる信心に焦点を置かなけりゃいけん。
 御神徳を頂く事の為には本当の、只参りました、お願いしましたではなくて、神徳を積むためには、本当の神様が分からにゃいけん。天地の親神様の御心が分からにゃいけん、天地の親神様の御心が分かるところからです、一切合切が有り難いと受けて行けれる信心が生まれてくる。そこに金光教は生きながら極楽と、玉水の先生が仰せられる様に、御自身が御神徳を受けられ、御自身が徳を受けられて、これは体験されたところから、お話になっとられるお言葉と思います
 。私もそれを信じます。だから皆さんも、皆さんもそこを信じてです、信心の稽古をさせて頂かにゃならぬ、弛まず、しかもそれが楽しうならにゃいかん。難しい事に出会えば出会う程、それは難しい問題に出会えば出会う程、おかげを頂かなければならん。今日私は御神前で、大堰金島と頂いた。どんな事であろうかと思いました。大堰と言うことは大きな関所と言うこと、信心さして頂いておる、次には金の島があるのです。そこの向こうには、大堰の向こうには金島になってますよね。
 だからこの大堰を越しきらんやったら、いつまでも片ノ瀬あたりで、何時迄もくずくずしとらねばならん。片ノ瀬、片方的なおかげしか頂かれん。私どもが信心させて頂きよる内、それこそ目の前が真っ黒うなる様な事があっても、日頃信心させて頂いとる、それこそ驚かんで済む程しの信心を頂いて、そこの関所を乗り越えた時に向こうが金島である、それこそこれは、おかげの世界の事を頂いたんであろうと思います。そしたら今日この御理解十六節を頂いた。そして今申して参りました様な。
 所をです思うてみてどういう関所にぶっかっても、そこから後すざりする事がない、そこんところを本気で乗り越えさせて頂いて、おかげの世界、金島へ入って行かねばいけません。御神徳を頂いて長生きをせよと、生きたくば神徳を積んで長生きをせよと、神徳を積むためにはそういう関所もまた、普通ではとても難しい様な所でも、本当に本気でそこを乗り越えさせて頂く気になりゃ、乗り越えられる様になっておるのが信心の関所です、ここんところを一つ頂きぬいてからの、おかげ頂かにゃならんと思うですね。
   どうぞ。